2014年05月16日
永平寺
2014年 4月
荒島岳登山の様子はこちらから!
龍双ヶ滝の様子はこちらから!
東尋坊の様子はこちらから!
雄島の様子はこちらから!
丸岡城の記事はこちらから!
「福井県の観光地」で検索すると、どのサイトも東尋坊の次らへんに出て来るのが「永平寺」でした
お寺って、学生時代に修学旅行で奈良の大仏とか、京都の有名所のお寺とかに行った時位しか無いな~っと思い
特に宗教とかは信じている訳では無いのですが、こういう時位しかお寺って、なかなか行く機会って無いな~っと思い永平寺に向け車を走らせます
永平寺(wikiより)
福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。
總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。
山号を吉祥山と称し、寺紋は久我竜胆車紋である。
開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。
歴史
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。
父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。
道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。
道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。
しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。
師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。
如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。
道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。
なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。
寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。
この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。
これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。
その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介のもとで整備が進められた。
義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。
一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。
暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。
その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。
応安5年(1372年)、後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。
天文8年(1539年)、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の綸旨を受ける。
天正19年(1591年)、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受ける。
元和元年(1615年)、徳川幕府より法度が出され總持寺と並び大本山となる。
要は大昔に中国に渡ったりして「禅」を極めた、道元さんが建立した修行の場。だそうです
(2009年に「禅」というタイトルで映画にもなっている様です)
「禅」って聞くと、座禅を組んで心を無にして、心が波立ったりすると
「喝!!!!」
って、されるアレを思い浮かべますが
今回はお寺の見学だけです
精進料理とか修行僧と一緒に修行したりとか、そういのの体験できるコースもあるらしいです
永平寺の入り口
さすが「大本山」と言われるお寺、かなりの大きさです
ご焼香をして中に入ります
受付をして、靴を脱ぎ、修行僧の方の説明を聞いてから、お寺内を見学することが出来ます
見学中は写真撮影は自由ですが、お坊さんを写したりはご法度です邪魔をしないようにですね
天井に絵が貼ってある大広間
花や鳥の絵が天井にびっしりあるのですが、花や鳥以外の絵が数個あるそうで、探してみて下さいとのこと
永平寺の御本尊
自分は仏像の目が好きですね
優しい様でもあり、厳しい様でもあり、微笑んでいる様でもあり、怒っている様でもあり、目を閉じている様でもあり、全てを見ている様でもあり、ただ寝ている様でもある
あの目が好きですね~
永平寺の宝物殿??みたいなところにあった像もそうですが
神様が宿っているのか、はたまた作った人の魂が宿っているのか
完全に生きているだろ!っていう目をした像がたまにありますよね
像でもなんでもですが、良い意味での、そういった「命」を与えられるような作り手の人をホント尊敬しますね~
中庭
一般進入禁止の場所で偉い人だけが歩ける領域とのことです
丁度、桜も満開とても綺麗~
法要などが行われる場所
今にもお経が聞こえてきそうです
亡くなられた方の位牌などが安置されている場所
閻魔様の像が置いてあります
お寺を一通り周り、近くの食事屋で蕎麦を戴き、次の目的地を目指します
こういう考え方、生き方とかを学ぶ場所なのでしょうね
静かで重みのあるお寺、永平寺
こういう所も、また良いな~と思いました
子供の頃は、お寺なんて面白くもなんとも無い!!って思ってたんですけどね~
山もそうでしたが
大人になったからこそ、見たり聞いたり感じたりすること、気付ける「良さ」みたいなのがありますよね
荒島岳登山の様子はこちらから!
龍双ヶ滝の様子はこちらから!
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「福井県の観光地」で検索すると、どのサイトも東尋坊の次らへんに出て来るのが「永平寺」でした
お寺って、学生時代に修学旅行で奈良の大仏とか、京都の有名所のお寺とかに行った時位しか無いな~っと思い
特に宗教とかは信じている訳では無いのですが、こういう時位しかお寺って、なかなか行く機会って無いな~っと思い永平寺に向け車を走らせます
永平寺(wikiより)
福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。
總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。
山号を吉祥山と称し、寺紋は久我竜胆車紋である。
開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。
歴史
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。
父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。
道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。
道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。
しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。
師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。
如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。
道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。
なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。
寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。
この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。
これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。
その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介のもとで整備が進められた。
義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。
一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。
暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。
その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。
応安5年(1372年)、後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。
天文8年(1539年)、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の綸旨を受ける。
天正19年(1591年)、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受ける。
元和元年(1615年)、徳川幕府より法度が出され總持寺と並び大本山となる。
要は大昔に中国に渡ったりして「禅」を極めた、道元さんが建立した修行の場。だそうです
(2009年に「禅」というタイトルで映画にもなっている様です)
「禅」って聞くと、座禅を組んで心を無にして、心が波立ったりすると
「喝!!!!」
って、されるアレを思い浮かべますが
今回はお寺の見学だけです
精進料理とか修行僧と一緒に修行したりとか、そういのの体験できるコースもあるらしいです
永平寺の入り口
さすが「大本山」と言われるお寺、かなりの大きさです
ご焼香をして中に入ります
受付をして、靴を脱ぎ、修行僧の方の説明を聞いてから、お寺内を見学することが出来ます
見学中は写真撮影は自由ですが、お坊さんを写したりはご法度です邪魔をしないようにですね
天井に絵が貼ってある大広間
花や鳥の絵が天井にびっしりあるのですが、花や鳥以外の絵が数個あるそうで、探してみて下さいとのこと
永平寺の御本尊
自分は仏像の目が好きですね
優しい様でもあり、厳しい様でもあり、微笑んでいる様でもあり、怒っている様でもあり、目を閉じている様でもあり、全てを見ている様でもあり、ただ寝ている様でもある
あの目が好きですね~
永平寺の宝物殿??みたいなところにあった像もそうですが
神様が宿っているのか、はたまた作った人の魂が宿っているのか
完全に生きているだろ!っていう目をした像がたまにありますよね
像でもなんでもですが、良い意味での、そういった「命」を与えられるような作り手の人をホント尊敬しますね~
中庭
一般進入禁止の場所で偉い人だけが歩ける領域とのことです
丁度、桜も満開とても綺麗~
法要などが行われる場所
今にもお経が聞こえてきそうです
亡くなられた方の位牌などが安置されている場所
閻魔様の像が置いてあります
お寺を一通り周り、近くの食事屋で蕎麦を戴き、次の目的地を目指します
こういう考え方、生き方とかを学ぶ場所なのでしょうね
静かで重みのあるお寺、永平寺
こういう所も、また良いな~と思いました
子供の頃は、お寺なんて面白くもなんとも無い!!って思ってたんですけどね~
山もそうでしたが
大人になったからこそ、見たり聞いたり感じたりすること、気付ける「良さ」みたいなのがありますよね
Posted by gami at 01:50│Comments(0)
│旅
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