2014年10月06日
久能山東照宮
秩父華厳の滝の様子はこちらから!
本栖湖の様子はこちらから!
白糸の滝の様子はこちらから!
音止めの滝の様子はこちらから!
三保松原の様子はこちらから!
2014年 8月
続いて訪れたのが
静岡の日本平にあるパークセンターのローピウェイから行ける久能山にある東照宮
久能山東照宮に行って来ました
ロープウェイに乗り終点に着くと早速、御神木がありました
御神木には、綺麗なヤマユリが咲いていました
いかにも御神木と言った感じですね
久能山東照宮(wikiより)
日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社である
晩年を駿府で過ごした徳川家康が元和2年(1616年)に死去した後、遺命によってこの地に埋葬された
江戸時代には20年に一度、明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、近年では2006年(平成18年)に社殿の塗り替えが完了した
2010年(平成22年)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された
2015年(平成27年)には鎮座400年を迎えるため、様々な催し物が企画、開催されている
祭神:徳川家康(東照大神・東照大権現)
(相殿)豊臣秀吉・織田信長
久能山(標高216m)は、もともと日本平と共に、太古、海底の隆起によって形成されたもので、長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった
推古天皇(592- 628年)の頃、久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。永禄11年(1568年)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた
しかし、武田氏の滅亡と共に駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った
家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる
死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、元和3年(1617年)には2代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された
家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期造営が始まっている
日光山の東照社は3代将軍・家光の代になって「寛永の大造替」と呼ばれる大改築が為され、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった
同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(現存せず)、楼門が増築された
なお、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家宗家であった
造営以来の多くの建造物が現存するが、寛永期に徳川家光が造営を命じた五重塔は、明治時代初期の神仏分離によって解体を余儀なくされた
東照宮と言えば日光ですが、こちらの方が先に徳川家康が埋葬された東照宮なのです
久能山の入り口
家康が眠る久能山の頂上へと目指します
徳川家康の手形だそうです
合わせてみましたが自分と同じ位の大きさでした
とても大きな手です
身長155cmだったのですね
更に上を目指します
静岡県は有名なおもちゃメーカーのバンダイのお膝元だそうで、ガンダムのプラモデルが奉納されています
拝殿
ご挨拶させて戴きます
山の上なだけあって日光の東照宮より小さいのですが、華やかさは変わらずです
ホント鮮やかな神社です
徳川家康公のお墓へと向かいます
徳川家康公の墓所に到着
人の一生は重荷を負って遠き道をゆくが如し
いそぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし
こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし
堪忍は無事長久の基
いかりは敵とおもへ
勝事ばかり知てまくる事をしらざれば害其身にいたる
おのれを責て人をせむるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり
とても重く、良い言葉です
意味を是非調べてみて下さい
実際には徳川家康は久能山に眠っているのか、日光に眠っているのかは分かってはない様です
どちらに眠っているにせよ東照大権現として日本を見守っていて下さい
徳川家康の愛馬も奥のほうに弔われておりました
お参りを済ませた後、日本平に戻り抹茶ソフトを戴きました
おみくじを引き、出て来た言葉
「嘘を付いてはならぬ」
「本当そうな嘘でも嘘は言ってはいけない、嘘の様な本当でも本当の事を貫きなさい」との事
ま~、嘘を付いたり人を騙したりしても決して自分の為にはならない。と思っているので、極力そんな事はしないよう気を付けていますがねぇ
「嘘の様な事でも本当の事を貫く」
う~む、、、、、
そのうち、山を登り始めたきっかけの事でも書こうかなぁ、、、、、
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2014年 8月
続いて訪れたのが
静岡の日本平にあるパークセンターのローピウェイから行ける久能山にある東照宮
久能山東照宮に行って来ました
ロープウェイに乗り終点に着くと早速、御神木がありました
御神木には、綺麗なヤマユリが咲いていました
いかにも御神木と言った感じですね
久能山東照宮(wikiより)
日本の静岡市駿河区根古屋に所在する神社である
晩年を駿府で過ごした徳川家康が元和2年(1616年)に死去した後、遺命によってこの地に埋葬された
江戸時代には20年に一度、明治時代以降では50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、近年では2006年(平成18年)に社殿の塗り替えが完了した
2010年(平成22年)12月に、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定された
2015年(平成27年)には鎮座400年を迎えるため、様々な催し物が企画、開催されている
祭神:徳川家康(東照大神・東照大権現)
(相殿)豊臣秀吉・織田信長
久能山(標高216m)は、もともと日本平と共に、太古、海底の隆起によって形成されたもので、長い年月の間に浸食作用などのために硬い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった
推古天皇(592- 628年)の頃、久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる円爾(聖一国師)など、多くの名僧が往来し、隆盛をきわめた。永禄11年(1568年)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた
しかし、武田氏の滅亡と共に駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った
家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる
死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、元和3年(1617年)には2代将軍・秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された
家康の遺命は久能山への埋葬および日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現・日光東照宮)もほぼ同時期造営が始まっている
日光山の東照社は3代将軍・家光の代になって「寛永の大造替」と呼ばれる大改築が為され、徳川家康を祀る日本全国の東照宮の総本社的存在となった
同時に家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(現存せず)、楼門が増築された
なお、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領して久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家宗家であった
造営以来の多くの建造物が現存するが、寛永期に徳川家光が造営を命じた五重塔は、明治時代初期の神仏分離によって解体を余儀なくされた
東照宮と言えば日光ですが、こちらの方が先に徳川家康が埋葬された東照宮なのです
久能山の入り口
家康が眠る久能山の頂上へと目指します
徳川家康の手形だそうです
合わせてみましたが自分と同じ位の大きさでした
とても大きな手です
身長155cmだったのですね
更に上を目指します
静岡県は有名なおもちゃメーカーのバンダイのお膝元だそうで、ガンダムのプラモデルが奉納されています
拝殿
ご挨拶させて戴きます
山の上なだけあって日光の東照宮より小さいのですが、華やかさは変わらずです
ホント鮮やかな神社です
徳川家康公のお墓へと向かいます
徳川家康公の墓所に到着
人の一生は重荷を負って遠き道をゆくが如し
いそぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし
こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし
堪忍は無事長久の基
いかりは敵とおもへ
勝事ばかり知てまくる事をしらざれば害其身にいたる
おのれを責て人をせむるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり
とても重く、良い言葉です
意味を是非調べてみて下さい
実際には徳川家康は久能山に眠っているのか、日光に眠っているのかは分かってはない様です
どちらに眠っているにせよ東照大権現として日本を見守っていて下さい
徳川家康の愛馬も奥のほうに弔われておりました
お参りを済ませた後、日本平に戻り抹茶ソフトを戴きました
おみくじを引き、出て来た言葉
「嘘を付いてはならぬ」
「本当そうな嘘でも嘘は言ってはいけない、嘘の様な本当でも本当の事を貫きなさい」との事
ま~、嘘を付いたり人を騙したりしても決して自分の為にはならない。と思っているので、極力そんな事はしないよう気を付けていますがねぇ
「嘘の様な事でも本当の事を貫く」
う~む、、、、、
そのうち、山を登り始めたきっかけの事でも書こうかなぁ、、、、、
Posted by gami at 01:17│Comments(0)
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